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少陽と少陰のまとめ(続編)

実は、ある方から鍼灸と湯液(漢方)では、同じ言葉であっても意味合いが違うよ。

と教えて頂きました。


確かに、そういうことが東洋医学の中では沢山あります。

中医学のような西洋医学寄りの考え方の方が明確な答えをもっているのかもわかりません。


しかし、どの考え方にも納得できない部分があるので私なりの感じ方をまとめて書いてみました。言葉(イメージング)と共鳴する身体の状態を観察していくと、こうなったという話しです。だから言葉は同じでも鍼灸にも湯液にも、中医学にも、どれにも属さないものになっています。

一般的な東洋医学系の考え方は、あくまでもその概念を理解していないと意味さえ理解することができません。実は同じ漢方でも流派が違えば概念が違うので、同じ言葉が同じでなくなるのです。


本当にそんな世界が成り立って良いのか?


これは学生の時から大きな疑問でした。

同じ人間の身体を診ているはずなのに、概念が違えば言葉が同じでも意味が違うというのでは非常にわかりにくいし、それが発展を妨げている可能性は否定できません。もっともっと大らかにザックリと捉える必要性があるのが東洋医学だと思います。ただザックリとという意味は、いい加減という意味ではなく、デジタルからアナログへのシフトです。


区別のない曖昧なものというのは、そのものズバリを見たアナログで判断しなければなりません。段階を区分したデジタルで判断しようとすると、そのものを言い当てないものになってしまいます。

通常の学問は、概ねデジタル的で区分けされ、同じグループという考えをしますが、実際のものは全てがアナログです。デジタルをアナログに近づけることはできますが、デジタルはあくまでも0か1ですからかなり詳細に調べないとアナログには近づきません。どちらも使いわけながら、最後はアナログでそのものズバリを見る。そうすると今までにない効果が出てくるのです。

達人はそれをやっているはずです。そうでないと説明できないことが一杯あります。


大事なことは、術者はアナログで診ているのかデジタルで診ているのかをしっかり意識し、把握している必要があるということです。つまりわかってやっているということを知っていることです。

医学が体系化されていない大昔は何の区分けもされていませんでした。そこで、どのような名前でも良いので誰かが区分けをしてみた。そうすると、人に伝えやすかった。それが学問になったという訳です。この順番を絶対に忘れてはならないし、その順番でしか人に伝えることはできません。


どちらにも属すというものは、区分けができません。その場合は新しく名前をつけなければなりません。それまでには、議論が必要です。学問は既知のものには強く、未知のものには滅茶苦茶弱いという特性があります。

今回の世間の騒ぎでも、それが身にしみました。区分けが完成されているように見えている東洋医学は尚更なのだと思います。だから意外にも頭の良い人が東洋医学に嵌まります。そしてこれはこうだ~と言い切ってきたりします。中医系の人には多いかもわかりません。

それに気づいていないと、そこには大きな落とし穴があるという訳です。なので発展はありえません。


学問というのは同じものを見つけるという役目があります。しかし、私の思う学問は、同じものは二度とないという立場です。よく似たものはありますが、それも同じとは考えない。そういう立場にたっていますので、現代の学問からは遠く離れたもののような気がします。


それが正しいとか正しくないと言う議論は不必要です。言葉と感覚を用いて既知の概念に当てはめると、どんな区分になりやすく、何ができるかを模索しているだけです。感覚は不確かなので信頼できないと言う人もいると思います。確かに感覚というのは不確かです。そして訓練もいりますが、感覚でしかわからないものが一杯あります。


いちごの味を論理的に説明しようと思っても難しいし、それを数量化するのはさらに難しい。糖度や酸味だけではない何かがおいしさの中には含まれています。そして、それは、好みという個人的なものも含まれています。

仮に、いちごの味を科学的に再現したものができたとします。

それは果たして、いちごなのか?


ある有名人が、料理は、レシピ通りに作れば同じ物ができる。コンビニのグレードはかなりあがってきて、一流レストランと比較しても、大きな違いはなくなってきていると言っている人がいました。

その人が言うと説得力があると思ってしまう人もいるかもわかりませんが、私はそうは思いません。というかそう考えるのはかなり乱暴な考え方だと思います。

目隠しをして食べればそう言うことも言えるかもわかりませんが、人は目隠しして食べる訳じゃありません。


また、こういうこともあります。1万円のギターと100万円のギターを弾き比べしたとう動画があるのですが、上手い人が弾くと、聞き分けられないんです。何となくこっちの方が好みかなぁ~と思ったら、1万円のギターだったりもします。

それが人間の感覚であり不確かさなんだと思います。しかし、その不確かさこそが世の中の根幹を担っています。


医療の中にも目隠しテストというのがあります。新薬の最終段階でそういうテストをするのですが、科学的根拠となっていると言われています。この話しは何度も書いているのでわかっている人も多いと思います。

ただ、本当の薬と偽の薬は見分けが全くつきませんので、処方する医師も本当の薬かどうかはわかりません。

論理的に考えれば、本当の薬は効果があって、偽の薬は何の変化もないと考えるのが普通だと思います。


しかし、なぜか、偽の薬でも作用も副作用もある訳です。これは本当に驚きです。主観と言いますが、主観を超えていると思うのですが、皆さんはどう思いますか?

昔の偉人達は、これを「気」と呼んだ可能性は非常に高いです。身体は目に見えない何かを感じとる能力があるのは事実ですし、それを否定すること自体が科学の否定にもなります。

滅茶苦茶皮肉な話しだと思うのですが、そのことに気づかないで科学的根拠を連発する人ってわかっていないような気がします。


科学的根拠と言っている人は、科学的根拠という言葉に騙されることがよくあります。頭だけで考えたものじゃ~ない何かの存在を私達の身体は感じとって生活しているのです。腹で感じる何かがあるのです。それはこの目隠しテストが物語っている訳です。そこには誰も何も言わないのです。なぜなら、わからないからです。


薬で副作用が出た。酷い症状で立って歩くこともできません。しかし、頭の先から足の先まで検査をしたけど、どこにも悪いところはありません。その薬を投与する時、その人は喜んで投与したそうです。これで普通の生活ができる!!

ってね。

本当にこれを精神疾患と捉えたり主観や思い込みと言って良いのでしょうか?

この現象は、単なる思い込みによるものなのでしょうか?


未来の科学では、この現象が証明される時がくるかも知れません。

未来人から見たら、そんなこともわからなかったのかと思われるかもわかりません。原因は○○なのに・・・。

ってね。

本当に科学的根拠って正しいのか?

正しい部分もあり、間違っている部分もあり、わからない部分もある。


やっぱり曖昧なんですよ。

それをしっかり認識してこそ科学です。


川の石ころは同じような形をしているけど同じじゃない。

同じに見えるものを掘り下げれば、大きな違いにぶつかる。


学問とは何か?

常に問いかけていなければなりません。


もっともっと、自然の中に身を委ねた方がいい。その方が心が豊かになります。



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