東洋医学の気水血


なんども気水血については書いていますが、「水」の存在というのは大きいとつくづく思います。特に関節の問題の場合、必ず「水」の流れが異常となっています。しかし、この「水」の異常とは何でしょうか?


「水」の流れが滞っている場所があるなら、必ず、「水」の流れ悪い(虚)ところがあるはずです。もちろん「血」に関しても「気」に関しても同じです。

しかし、それはあまり言われません。


「水」の流れがお腹で停滞しているのであれば、どこかで「水」の流れが虚になっている部分がある訳です。それが左足だけに出ているというパターンを最近何度か見かけます。


それなら、虚である左足が主役になっているのか、お腹の実が主役になっているのかの優位診断が必要なはずです。

しかし、それには何も触れられません。

経脉でもそうなのですが、脉診をする時、十二正経の中で虚しているのは何経絡?


という問いかけをすることはあっても、一つの経脉の中の虚実は何も語られません。


その経脉全部が虚だとすると、虚と対応して何経が実なのかも大事です。


しかし、その経脉の上流が実で、下流が虚と言うような表現はあまりありません。


もちろん、それで、臨床上成り立たないのかというとそうでもありません。それはそれで成り立つのですから不思議です。

曖昧な医学と呼ばれるのは、そういうことがあるからではないかとも思います。


どこかが実なら必ずどこかは虚になるはずです。それはエネルギー保存の法則とも類似するのではないかと思います。




飮食なら摂ったり摂らなかったりということで、増減はありますが、「水」も「血」も一定であって、急激な変化をすることはありません。



「気」を入れるという表現をする人がいますが、「気」を入れるのは本来おかしいのであって、その人の「気」が増えたり減ったりしていると認めているようなものです。

それは基本的にあり得ないはずです。「気」の低下している場所はあっても、それは渋滞しているところがあるから低下しているところができた訳ですから、その人の中で完結しているはずです。


「気」を入れるとあなたも気功治療ができるようになるというような馬鹿な口車にのせられて高額なお金を払う人もいるそうなので驚きます。


「気」を調整することはできても、「気」を入れたり出したりするのはおかしいはずです。


他から影響を受けることはあっても、それは自分の中での変化であって、他人から入れたり出したりできるものではないはずです。



どんな綺麗な景色を見ても、凄い神秘体験をしたとしても、その人の本質が変わる訳ではありません。必ず元の状態に戻ろうとします。そうでなければ本来の自分なんてありません。


特性がコロコロ変わったら、きっと自分を見失ってしまうのではないかとも思います。






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