声楽と科学
声楽をやっている子が自分が歌を歌っている時にどんな声帯の動きをしているんかなぁ~?
と言っていました。この子にとっては上手く歌えるにはどんな声帯の使い方をすれば良いのかという疑問だったと思います。
そこで私が、声帯の使い方って誰も見たことないよね~。
って言いました。
しかし、声を出している時の映像ってありますよね?
あれって現実の一部なんだろうと思います。
歌っている時の声帯の動きを撮った映像は確かにあります。
でも自分のを見ながら歌った人はそう多くないし、曲によっても違うでしょう。
音痴の人と上手い人の差
低音の人と高音の人の差
ソプラノとアルトの差
バスとテノールの差
みたいな差を徹底的に調べた研究者っているのかなぁ~。
どこまでいっても、その詳細はやっぱりわからないし、声帯の使い方だけで歌が上手く歌える訳ではないと思います。
そもそも音楽は音を楽しむことなので、一般受けはしないかもわかりませんが、ランダムに並べられた音って集中の仕方ではかなり効果的な印象になります。
現代音楽なんて正にそんな感じですよね。
聞き手を選びますが、不協和音の羅列が効果的だったりすることもあります。絶対に一般受けしませんがね。
何をもって良いとするのか?
これには様々な議論があり、聞き手によって大きな違いがあります。
それが人間の感覚なんだろうと思います。
人間の身体や感性は、やっぱり自然に近いのだと思います。自然が理路整然と並ぶことは殆どありません。
科学だけで自然を語ろうとするとどうしても無理がある訳です。
それを知っていて声帯の動きをみるのと、ただ声帯の動きをみるのでは大きな違いがあります。
常に受け取る自分がどういう状況かによって違いがあるというのが自然です。
人類が積み重ねてきた既知のものは、全てではない。
それを深く知っているものだけがエビデンスという言葉を使えるのではないかと私は思います。
軽々しく統計と言って欲しくないなぁ~といつも思いますし、科学的と言う言葉を慎重に使って欲しいと思っています。
科学では推し量れない現場があります。
だからこそ面白いのです。
声帯ならまだ見れそうですが、科学だけで物事を考えようとすると、どうしても乱暴な物の見方になってしまうんです。
川にある石ころは、まとめて石ころと考えます。
しかし、よく観察してみると同じ石ころでも形が全て違う。
よく似た形は見つけられても細部まで一緒のものを見つけることは、ほぼ不可能です。
下手な歌手と上手い歌手を比べて上手い歌手の方が使い方が良かったりするかもわかりませんが、下手な歌手の方が良く聞こえたりすることもあります。
ある歌手が自分の持ち歌をコンピューターで診断するカラオケマシーンで歌うと、80点ぐらいだったことがあります。
音が外れていたりするんです。コンピューター通りに歌える歌手より、その歌手の方が聞きたいというのが正直なところです。
その差はどこから生まれるのかということを考えないで音程やビブラートを完璧なタイミングで歌う歌手の方が良いと思ったら、人がコンピューターに合わせているということです。
人にコンピューターが近づいたのではなく、コンピューターに人が近づいたのです。これは養老先生の言葉ですが、正にそう思います。音声認識ソフトを私は時々使いますが、あきらかにコンピューターに合わせて発音し、認識して貰えるように努力している自分がいます。
それでも楽なので音声認識はよく使います。
しかし、それってある意味危険なことではないかと思うのです。
だから人に優しいAIとか言うのも落とし穴です。
人ってそんなにキッチリしてない。
合理的でもないし、かなり感情的です。
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