全ては印象
人間社会は、全てが印象でできていると思えることがあります
ロシアンルーレットの話しですが
10個の弾倉に弾丸が二発入っています。
8個の弾倉に弾丸が二発入っています。
どちらを選ぶ?
当然、10個の弾倉ですよね。確率から言えばね。
10個の弾倉の方に二人挑戦し、空胞だったとします。
つまり10個の弾倉に弾丸が二発ですが、二回引き金を引いているので、8個の弾倉に二発の弾丸が入っている方と同じ確率です。
さぁ、どっちを選ぶか?
確率は同じですが、印象は変化します。
さぁどっち?
2人が空砲だったということを見ていた人は、なにも考えないでそちらを選ぶかもしれません。
それとよく似たことを一生懸命、頭で考えてワーワー言っている気がしてなりません。
何パーセントだったから大丈夫とか大丈夫でないとか・・・。
数字に惑わされているとしか思えない。
多くても少なくても、100個の弾倉に一発しか入ってなくても、一人目で当たるかもわかりません。
どれだけ頑張っても引き金をひくまでわからない。
それは1000個だろうが1万個だろうが同じです。
運しかない。
それが、この命がけのゲームのルールです。
確率は神頼みと同じです。現代の科学的と呼ばれる形を変えた神頼み。
そんな気がするのは私だけ?
印象だけで真か偽を豪語するのは止めた方がいい。
真か偽じゃなく、答えはわからない。
それで良いのでは?
わからないことを許さない。
というような社会は、どこか間違っています。わからないことだらけなのに、わかったようなことを言うと混乱する。
それをマジマジと見せてもらったなぁ~と思います。
賛成、反対、どちらも絶対ではありません。
どちらも引き金を引くまでわからない。
それが事実です。
あくまでも確率なのです。
Comments